1:以下、暇人がお送りします:2014/04/20(日)
明治時代初期の警視庁第六方面第二署=現小松川署(江戸川区)=の名簿が見つかり、幕末の新選組隊士、斎藤一はじめ(1844〜1915)とみられる名前が記されていることがわかった。

 剣豪でならした斎藤が明治維新後、警視庁に勤めたことは知られており、専門家は「斎藤の後半生を知る貴重な資料」とみている。


詳細はこちらから

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斎藤 一(さいとう はじめ、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、日本の武士(新選組隊士)、警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。

幕末期に新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。
戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。
明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。

退職後、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務める。
出自、経歴は不明な点も多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80

2: Twitterの反応:2014/04/20(日)

なっ、なんだと!?

— 万 晋龍@創作 (@sinryu11) 2014, 4月 20



3: Twitterの反応:2014/04/20(日)

えっ 戸籍名「藤田五郎」だったんじゃねえの えっ

「斎藤一」という名前は、京都に移ってから新選組全盛期にかけてのものである。最初の名前は山口一である。
「一」は彼の誕生日(1月1日)に由来すると子孫の伝承ではいわれているが、史料的根拠はない。
文久2年(1862年)、江戸で刃傷沙汰を起こして京都に逃亡した際、斎藤一と名を変えた。
慶応3年(1867年)に山口二郎(次郎)と改名。
会津藩に属して戊辰戦争を戦った時期には一戸、一瀬伝八を名乗った。
斗南藩に移住する直前、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名した。
明治5年(1872年)の壬申戸籍には「藤田五郎」として登載されている。
ちなみに、これらすべての名前に数字が入っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80

— 歩弥丸(ふみまる) (@hmmr03) 2014, 4月 20





4: Twitterの反応:2014/04/20(日)

警視庁の名簿から斎藤一の名前が見つかり、時期や役職から考えて新選組のあの人とみて間違いないっていうけど、
その頃は藤田五郎じゃないといろいろまずいんじゃないの?
まあそこら辺はそこまで詳しくは知らんけど。

— 徳津院 (@giants_jj) 2014, 4月 20






5: Twitterの反応:2014/04/20(日)

ということは「藤田五郎」はこれより後の名前なのかな?

— vanilla/ばにら/めいばん (@vanilla_q) 2014, 4月 20



6: Twitterの反応:2014/04/20(日)

明治時代の警察官名簿の中から「斉藤一」の名前が記載されているものが見つかり、
新選組の斎藤一に比定されると今日の朝刊が報じていた。
斎藤は明治維新後は一戸伝八、藤田五郎の変名を使ったと言われているが、
これが本当なら新選組時代の名前のまま勤務していたことになり中々面白い。

— Western Fox (@Kashimaconserva) 2014, 4月 20



7: Twitterの反応:2014/04/20(日)

斎藤さんの名簿。諾斎の逸話も好きだし、多くを語らない所も好きだ。

— donkihote (@donkihote000) 2014, 4月 20



8: Twitterの反応:2014/04/20(日)

へー、これが本物だったら、明治期にも「藤田」じゃなくて「斎藤」を名乗ってた可能性があるってことかぁ・・・。

— 明野 (@akeno_y) 2014, 4月 20



9: Twitterの反応:2014/04/20(日)

お好きな方にはたまらないかと

— Yuko Kato (@mizukawaseiwa) 2014, 4月 20



10: Twitterの反応:2014/04/20(日)

こういう発見…妄想膨らむ…

— こにゃ@慢性的輝宗様不足 (@chang_frog) 2014, 4月 20




【関連】真相・真実を知ってがっかりした日本史の逸話・エピソード1位「沖田総司は美形ではなかった」


1: ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★ 2013/12/19 20:49:59
★真相・真実を知ってがっかりした日本史の逸話・エピソード1位「沖田総司は美形ではなかった」

日本の歴史上の逸話やエピソードは、教科書や小説、ドラマなどで語られていますね。しかし、それらの中には「どうやら真相は違うらしい」というものも少なくありません。真相は美談でもなければ、感動的でもない場合が多々あります。
そんな、真相を知ってがっかりした日本史の逸話・エピソードについて、読者665名に聞いてみました。

Q.真相・真実を知ってがっかりした日本史の逸話・エピソードを教えてください(複数回答)
1位 沖田総司はヒラメ顔で決して美形ではなかった 28.0%
2位 上野の西郷隆盛像は本人がモデルではない 24.1%
3位 板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」と言っていない 14.6%
4位 上杉謙信は武田信玄に塩など送っていない 12.9%
5位 福沢諭吉「学問のすゝめ」の「天は人の上に…」で始まる冒頭は平等主義を訴えたものではない 11.9%

■番外編:「赤穂浪士の吉良邸討ち入りの夜、雪なんか降っていなかった」に衝撃

●総評
1位は「沖田総司はヒラメ顔で決して美形ではなかった」でした。ドラマや映画ではイケメンが演じ、漫画やアニメではかなり美形に描かれていますよね。ところが実際は、浅黒い肌のヒラメ顔だったという説が。ただし、現存する肖像画も、決して「これが実像」と裏付ける証拠はないとか。
美形ではなかったかもしれませんが、浅黒いヒラメ顔であったという確証もないという点が、せめてもの救い!?

2位は「上野の西郷隆盛像は本人がモデルではない」という真相。公開された銅像を見て、彼の妻が「こげんなお人じゃなかった」という感想を洩らしたとも言われています。西郷は写真嫌い、もしくは暗殺などの身の危険を避ける理由から、顔写真が出回らないようにしていたそうです。
>>2へ続く


http://woman.mynavi.jp/article/131219-42/

2: ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★ 2013/12/19 20:50:06
>>1より
3位は「板垣退助は『板垣死すとも自由は死せず』と言っていない」。本人の回顧録では、「驚きのあまり声も出なかった」と記されているそう。これについては、「実際にこれを言ったのは、現場に居合わせた自由党幹部の内藤魯一」、「病院で療養中の板垣が、見舞いの客にこれと似たような趣旨を語った」など諸説あるようです。

4位には「上杉謙信は武田信玄に塩など送っていない」がランクイン。海のない甲斐では塩は輸入資源。そこで敵対する北条氏や今川氏は、甲斐への塩の輸出を止めるという戦略上の措置を取りました。しかし、越後は依然変わらず甲斐との塩の売買を継続。
つまり、「贈った」のではなく「売っていた」のであり、単に以前から行われていた貿易だったといわれています。

5位は福沢諭吉「学問のすゝめ」について。生まれや血筋に関係なく、誰もが裕福で位の高い身分になれるチャンスはあるという意味では、平等を謳っているとも解釈できるのですが、少なくとも「お金の有無」や「身分の高低」で人や人生の価値が決まるものではないとは言っていないようです。

年末の風物詩「忠臣蔵(赤穂浪士)」での、雪降る中での討ち入りのシーンはあまりにも有名。しかし、どうやら史実としては討ち入り当日の12月14日、江戸は晴天だったとのこと。ただ、前日の13日は大雪で、14日も雪が積もっており、その銀世界の情景から、いつしか雪が降っているというシチュエーションが加えられたのでしょう。(抜粋)

7: 名無しさん@13周年 2013/12/19 20:52:17 ID:CzlSapNl0
戦国武将はバイセクシャル。

あ、コレ腐女子は喜ぶのか・・・・・・

8: 名無しさん@13周年 2013/12/19 20:52:36 ID:m6gy45Uf0
徳川吉宗は暴れてない

34: 名無しさん@13周年 2013/12/19 20:56:42 ID:0eDYX6Mb0
>>8
紅茶吹きそうになったわ

339: 名無しさん@13周年 2013/12/19 21:38:23 ID:EK5rG/d7i
>>8
歴代将軍の中でも一番のヤンチャ者だけどな

詳細はこちらにて









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